「よそ者であったときに宿を貸し」。新しい年の始めに、レビ記からマタイによる福音書まで、聖書が外国から来た人を迎えることについて何を語っているか、そしてゲストがその国の言葉を話さないとき、普段の日曜日に歓迎がどのような形をとりうるかを見ていきます。
昨日、1月6日、多くの教会が公現祭を祝いました。東方から来た博士たち、長い道のりを旅してきた外国人が、幼子を拝むためにベツレヘムに着いたのです。マタイが伝える、イエスのもとに来た最初の人々の中には、別の国から来て、別の言葉を話す人々がいました。
新しい年は、しばしば教会に新しい顔をもたらします。ですから今週は、聖書がよそ者について、そして歓迎について何を語っているかに、じっくり向き合うのにふさわしい週のように思えます。
マタイによる福音書25章で、イエスは諸国の民が王の前に集められる日を描き、ご自分のためになされたことを挙げられます。
あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、
ほめられた人たちは驚きます。王に仕えた覚えがないのです。すると王は答えます。「よく言っておく。私のきょうだいであるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしたのである。」(マタイによる福音書25章40節、聖書協会共同訳)
このリストには、とても日常的なものがあります。食べ物、飲み物、迎え入れること。どれもプログラムや予算は要りません。入口で、食卓で、礼拝後の会話の中で起きるようなことです。
この戒めは、マタイよりはるかに古いものです。イスラエルに与えられた律法の中で、神はこう言われます。
あなたがたのもとに寄留する者を、あなたがたの土地に生まれた者と同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。私はあなたがたの神、主である。
神が挙げる理由に注目してください。よそ者が役に立つからでも、それにふさわしいからでも、いつか皆と同じようになるからでもありません。イスラエルが、よそ者であるとはどういうことかを覚えているからです。申命記も繰り返します。「あなたがたは寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。」(申命記10章19節、聖書協会共同訳)
私たちの多くにも、その記憶があります。新しい国での最初の一週間。まだ身についていない言語での最初の礼拝。その後コーヒーを手に立ち、微笑みながら、五つに一つの言葉しかわからなかったこと。
ルツ記は、一つの歓迎の瞬間を軸に展開します。ベツレヘムにいたモアブ人の女性ルツは、見知らぬ人の畑に落ち穂拾いに行き、ボアズは彼女に優しく語りかけます。彼女はひれ伏して尋ねます。「どうして私に目を留め、親切にしてくださるのですか。私はよそ者ですのに。」(ルツ記2章10節、聖書協会共同訳)
その問い、「どうして私に目を留め」こそが核心です。ほとんどのよそ者は、多くを求めません。誰かが自分に目を留めてくれたかどうかに、すぐに気づくのです。
多くの教会では、入口での歓迎は温かく、心からのものです。難しさは数分後にやって来ます。礼拝が始まり、すべてがゲストには半分しかわからない言語で進むときです。彼らはその部屋にいても、その一部にはなりきれていません。
教会が行っている小さなことをいくつかご紹介します。どれも費用はかかりません。
ゲストの名前を覚え、正しく呼ぶ。 必要なら二度尋ねてください。ほとんど何よりも大切なことです。
一緒に座る。 後ろの席に一人で座ったゲストは、最後に一人で帰っていきます。
その人の言語の聖書を用意する。 ゲストが話す言語の聖書を受付のテーブルに置いておけば、聖書朗読を追うことができます。
その人の言語で一文を言う。 あいさつでも、最後の祝福でも。待っていたのだと伝わります。
個人として、また来てくださいと誘う。 アナウンスではなく、一人の人として。
私たちが MulingStream をつくり始めたのは、ある教会で説教を追えなかった一人のゲストがきっかけでした。MulingStream を使えば、ゲストは礼拝全体を、自分の言語で、ライブで、すでに手にしているスマートフォンで追えます。インストールするものはなく、誰かが前もって知っておく必要もありません。
イヤホンで聞くことも、翻訳を文字で読むこともできます。文字は、耳の聞こえにくいゲストにも、聞くより読むほうが速いゲストにも役立ちます。ゲスト側の詳しい説明はリスナー向けの仕組みをご覧ください。
これは「あなたに気づいていますよ」と伝える一つの方法です。握手や、名前や、コーヒーや、また来てくださいという誘いの代わりになるものではありません。ただ、説教が始まっても、歓迎が途切れないということです。
そして、誰も予定していなかったゲストにも役立ちます。教会には、どの日曜日にエリトリアやイランやベネズエラから誰かが入ってくるかはわかりません。ゲストが自分のスマートフォンで自分の言語を選べるなら、教会が知っておく必要はありません。備えておくだけでよいのです。
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13章2節、聖書協会共同訳)
今年、誰が私たちの教会に入ってくるのか、私たちにはわかりません。もしかすると、博士たちのように長い道のりを旅してきた、遠くからの誰かかもしれません。それが誰であっても、その人に目を留める教会と出会えますように。そして、あなたの教会が祝福に満ちた新年を迎えられますように。
会衆のこと、ゲストが持ってくる言語のことを教えてください。すべてのメッセージに私たち自身がお答えします。